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2012年10月17日水曜日

神輿運行経路からみた北窪田の移り変わり

10月7日は秋祭でした。お神輿さんが町内をどのように歩くか、子供御輿にGPSをつけて追っかけてみました。

まず、地図に落としてみました。

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これを、航空写真で辿ると、

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これを約40年前と比較してみました。

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この間にいかにたくさんの人が移り住んできたか分かります。

幟(のぼり)

祭りの象徴である幟旗(のぼり-)も最近は減って来ました。御神燈同様、交通事情などで立てにくくなったのでしょう。御輿について回ったところでは、神社以外で立っているところはここだけでした。

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御神燈は、ここにもありました。

2012年10月5日金曜日

御神燈

秋祭には欠かせない御神燈です。以前は別なところにも掲げられていたのですが、交通事情などで減ってきて、筆者が知る限り、町内にはここだけになりました。伝統を維持するのには、大変なご苦労があります、関係の皆様のご努力に感謝いたします。

 

御神灯の画像

御神燈

2012年10月4日木曜日

常夜灯

町内にも常夜灯があります。細い路地のさらに奥まったところですので、ご存じのない方もおられるかも知れません。

常夜灯は、本来、街道筋の道しるべのようなものでした。この常夜灯も、その役目を果たしていたこともあるのでしょう。

 

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常夜灯

2012年9月17日月曜日

龍神社と新田神社

町内で配布する案内からの転載です。


☆龍神社(りゅう)について
1.祭神は龍神淵(龍神社南の小野川にあった)に住んでいた竜神である。
2.伊予の国司、源寛が平安時代(貞観12年から18年の間)に雨乞いの神として創建した。
3.応仁の乱(1467年)後、河野氏の武将平岡道倚が社殿を復興した。
4.江戸時代、松平(久松)氏が松山藩主になってからは、郡代官が雨乞いの祭典を執行していた。
・宝暦5年(1755年)代官 藤勝保が金幣奉献。
・慶応3年(1867年)久米郡並びに窪田村の有志が鳥居を奉納した。
なお、境内には下記神社が祭られています。
・厳島神社(市杵島姫命)
・荒神社
。天神社

☆新田社(にったしゃ)について
弘化4年(1847年)4月に、庄屋松田安右衛門と修験宗元来院泉善が、本宮より勧請した疫病退散の神様です。
本 宮 旧小田町(内子町)新田八幡神社
祭 日 (旧)8月1日を(新)9月1日とした。
社 殿 元は、新田泉の東にあったが、明治42年に龍神社社殿の南側に再び移転した。その後、拝殿老朽により、終戦後現在地に移転した。
新田泉 県道バイパスの小野川に架かる窪田橋のすぐ南の道路下にある。

 

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2011年6月20日月曜日

久米窪田の遺跡 石器時代の遺物も

久米窪田に人が住み始めたは1万年以上前、
現在の国道11号線を作るとき、窪田でもたくさんの遺跡が発掘されました。久米窪田交差点付近では、なんと、旧石器時代の遺物である黒曜石のナイフが発見されました。また、その近くでは縄文時代の住居跡や土器などの遺物がたくさん発掘されました。

愛媛県埋蔵文化財センターの報告書「久米窪田Ⅳ遺跡2次」を紐解くと、窪田とその周辺に遺跡がたくさんあることがわかります。

調査地
番号 遺跡名
3 久米窪田V遺跡
4 久米窪田I遺跡
5 久米窪田森元遺跡1次調査
13 久米窪田古屋敷C遺跡
19 波賀部神社古壇
26 久米官衙遺跡群
28 久米窪田II遺跡
30 久米窪田森元遺跡3次調査
31 来住廃寺跡
33 千軒廃寺
34 来住廃寺21次調査
36 1久米窪田古屋敷遺跡A区

この場所からは、古代の建物跡や墨書された土器、木簡なども発見されています。往時の官庁だった久米官衙遺跡群も近いことから、分庁舎のような建物があったのかも知れません。

現在の国道11号線の南は崖になっているところが多いですが、11号線のあたりが台地の境界のようです。古代人が住んでいたのは、そこから北側の台地の上だったそうです。

久米窪田森元遺跡の位置(4の場所)

2011年3月2日水曜日

北窪田町内の歴史と文化について

この地は、古くから人が住んでいた歴史ある集落です。といっても、灌漑ができるまでは、水に恵まれず古代人が農業を営むには適していなかったかも知れません。

時代が下って、ため池などが整備されてからは農村地帯となりましたが、やはり、水には苦労したそうです。近年、遠隔地のダムから導水されるようになると、農業用水の心配はなくなりましたが、社会の構造が変わってしまいました。東京オリンピックの頃には40戸に満たない戸数でしたが、現在は約600戸と、半世紀も経たないうちに15倍に増加し、農業地帯から住宅地域に変貌しました。
とはいえ、村のルーツは農村です。その文化と伝統を次の世代に受け継いでいきたいものです。既に、近代化の波の中で農耕儀礼の多くが途絶えましたが、残せるものは、形にして遺して生きたいものです。

少しずつ、作っていきます。気長に見ていてください。